石村萬盛堂

2020/06/06 20:37


博多の夏はなんと言っても山笠。
町毎の模様を染めぬいたハッピが博多の街を闊歩し、7月15日夜明け方のクライマックスにむけて、博多ンモンの気持ちは高揚していきます。

今年は延期となりましたが、改めて「山笠」のはじまりをご紹介します。


博多の人にとってなくてはならない山笠の始まりについては、寛元元年(1243)、博多に疫病が流行った時、承天寺を開いた聖一国師が、弟子に舁かせた施餓鬼棚(せがきだな)に乗って、町中に聖水をまいてまわり疫病を退散したのがその起源とされ、山笠台および台上の四周を囲む「杉垣」などはその施餓鬼棚の形式を伝えたものといわれています。

古来博多山笠には、承天寺の守札をつけ、承天寺から出される大般若転読の木版刷りの守札を身につけ、災難除けとする風習がありました。
山笠の外題を承天寺からつけてもらうことや、なによりも、櫛田神社を出た「山」がまず承天寺に向かい、門前の清道をまわることは、山笠の起源を形として今に伝えるものといえるでしょう。

また『九州軍記』に、

永享四年(1432)6月15日、櫛田の祇園社の祭りがあり、三社の神興が沖の浜へ御幸の後、十二双のつくりものをつくり、上には人形のようなものを据えて、これを舁いて歩行した。前代未聞の事なので、見物人が幾千万人も出て、とても賑わった」

とあります。

当時博多を領した大内氏が京風文化を好んだことから、京都の祇園祭の山や鉾のような、背が高く華やかな山が博多にも出現したのではないでしょうか。

初めは京都の祇園祭同様優雅な博多祇園山笠が、今のように競争する「追い山」となったのは貞享4年(1687)の事と伝えられています。これには新婚夫婦の里帰りにまつわる土居町と竪町の若者の血気盛んな逸話が伝えられています。さらに、タイムを競う追い山と美しさを競う飾り山が分けられたのは、明治中期、電信柱ができて高い山の通行ができなくなってからのことです。

時代によって祭りのやり方は変わっても、とにもかくにも、
「山笠のあるケン 博多タイ!!」
なのです。


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